カテゴリー別アーカイブ: よもやまばなし(通訳・翻訳、キャリア、留学体験記など)

☆通訳ガイド試験について

昨日は、以前、JETSに通ってくださっていた生徒さんが、去年、通訳ガイド試験に合格した事など、近況を報告するために、立ち寄って下さいました。通訳ガイド試験の英語は、英検一級 or TOEIC840点+TOEICのSpeaking/Writing試験で所定の点数に達すれば免除になるのですが、通訳ガイド試験の第一次試験(日本的事象を英語で説明する力が求められます)をクリアしたとのお話を聞き、とても嬉しく思いました。今後、東京オリンピックを契機に、観光業が盛り上がる事を見据え、国内旅行業務取扱管理者試験にも挑戦し、合格した(❗️)ので、第二次試験の地理は免除になったそうです。  若かりしころ、日本的事象を英語で丸暗記し、白地図がまっくろになるまで書き込んだ日々を思い出しました。◯◯君、がんばれ❗️  今後が、とても、楽しみです❗️ *\(^o^)/*

☆日本の動物福祉政策の推進に貢献されたルイゼ•ハンセン( Luise Hansen, Kobe )さんが、逝去されました。

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戦後、日本の動物福祉政策に多大な貢献をされたルイゼ•ハンセンさんが逝去されました。私にとっては、家族のような存在だったTante Luise(ルイゼおばさん)の告別式(@神戸中央カトリック教会)で、友人代表で、ご挨拶させていただきました。Tante Luiseがいなければ、今日の私は、考えられません。心から、ご冥福をお祈りいたします。

Thank you so much for joining us today.
On behalf of her friends, I would like to offer a few words.
My name is Yuri and tante Luise has been like family to me for many years. According to her, she arrived in Kobe during the war in 1942. She was supposed to go back to Austria using the Siberia railway, but she became stranded in Kobe after Russia declared war against Japan.
After the war, she became actively involved in various welfare and cultural activities in Kobe. Her tireless efforts and generous contributions to save animals and the environment were highly recognized by the government and she received an award from the Ministry of the Environment in 2003.
I always envied her supernatural power to attract animals such as dogs, cats, birds, and even wild boars! I am sure that she is now happily surrounded by all the animals she rescued and the people who shared her adventurous life with her. She was so inspiring and I learned so many things from her spiritually, culturally, and athletically. You know, since she came from Austria, she was a great skater! Thank you, tante Luise, for lots of laughs and love. We will miss you so much! Rest in Peace!

今日は、たくさん、お集まりくださいましてありがとうございました。私は、ハンセンさんとは、それこそ、私が生まれる前から、(父の仕事の関係で)家族のようにお付き合いさせていただきました伊藤ゆりと申します。友人を代表して、一言、ご挨拶させていただくことになりました。

ハンセンさんのお話しによりますと、第二次世界大戦中、1942年に、当時、滞在されていたインドネシアから、同盟国であった日本に送られ、神戸に到着。その後、シベリア鉄道経由で、オーストリアに帰国する予定だったそうですが、ロシアの参戦により、帰路を閉ざされ、神戸に滞在する事になったそうです。それ以来、70年あまりを、神戸の北野町で過ごされ、多くの国際的な友人に囲まれ、様々な活動をなされてきました。なかでも、動物福祉の分野では、日本動物福祉協会阪神支部の支部長としての献身的な功績が認められ、2003年に環境大臣賞を授与されました。まさしく、日本の動物政策を大きく動かしたパイオニア的な存在でした。いつも、いっしょにいると、犬も猫も鳥もイノシシでさえも、みな、私の前を素通りして、ハンセンさんに惹きつけられ、ヤキモチをやいたものでした。動物とお話しできる、不思議な力に驚くことばかりでした。私も、私の子供たちも、ハンセンさんからは、自然の大切さ、ポジティブな考え方、素晴らしい本との出会い、スキー、スケートなど、多くの事を教えていただきました。つい、最近まで、毎日、欠かさず、新聞にも目を通されていて、いつも、最新情報をハンセンさんからゲットするほどでした。あと、二カ月で、100才の誕生日をお祝いするのを心待ちにされていたのですが、その思いが叶わず、本当に残念でなりません。 今となれば、激動の時代を生き抜いた神戸の歴史について、もっと、お話しを聞いておけばよかったと悔やまれます。と、同時に、穏やかな表情で、安らかに旅立たれました事に安堵しております。今頃、ご本人は、たくさんの動物とご友人達に囲まれて、ホッとされている事でしょう。

タンテ•ルイゼ、たくさんの思い出をありがとうございました!神様のみもとで、どうぞ、安らかにお眠りください! 皆様、本日は、本当にありがとうございました。

☆現役通訳時代….

ヨーロッパの社会保障について、インターネットでリサーチしていたところ、現役通訳として走り回っていたころの原稿を発見しました。 仕事と子育てに追われ、大変な時期でしたが、通訳の仕事を通して、色々なことを学びました。 とても、なつかしいです。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/sakuin/kaigai/099.htm
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14141709.pdf

☆よもやまばなし  我が輩は猫である

夏目漱石の”我が輩は猫である”は、”I Am a Cat”という英文タイトルに翻訳されています。 なんだか、物足りないような気がします。 が、”私”、”僕”、”おれ”、”我が輩”、etc., を英訳する場合、すべて、”I”になります。社長も、子供も、自分の事を”I”と表現します。 ところが、たとえば、”I Love You”を和訳する場合、日本語では、”あなたのことを愛しています”、”君の事が好きなんだ”、 ”おら、おめえが好きだ” “好きやねん”などなど、それぞれの状況、背景、方言によって、様々な訳だしが考えられます。文学作品の翻訳は、つくづく、難しいな〜と思います。

☆よもやまばなし  そして英語講師に…

NYから帰国後、しばらくは、通訳・翻訳のお仕事を続けていましたが、関西に住む事になり、(通訳の仕事は、ほとんど東京に集中していました)、少しづつ、仕事を、通訳・翻訳業から英語の講師にシフトしていきました。 まず、関西外語専門学校、大阪外語専門学校や、関西の大学などで、通訳・翻訳・英検・TOEIC・TOEFLなどのクラスを担当しました。大阪外語専門学校では、翻訳学科の主任になり、児童文学やビジネス文書などの翻訳のクラスを担当しました。 素晴らしい生徒に恵まれ(児童文学などの分野では、生徒さん達の生き生きとした作品に圧倒されることもありました!)、英語を教える”引き出し”が増えた時期でもありました。 また、新田先生やTracey先生など、素敵な先生方との出会いもありました。 色々な学校で教鞭をとりながら、いつも、心の片隅で、いつかは、日本人にあった理想的な英語学校を築いていきたいという強い思いがあり、8年前にJETS Academyを立ち上げました。 昨年、横浜にあったJTES, Inc.(ジェッツ・インコーポレイテッド)の事務所を閉め、JETS Academyが主体となり,通訳・翻訳業務も一体化しました。 今も、まだまだ、試行錯誤、創意工夫が続いておりますが、よりよい英語学校をめざして、真摯に取り組んでいきたいと思います。(まずは、日本人にあった、より楽しく、効率的な英語教材の開発にとりかかっています。) 今後ともどうぞ、よろしくお願い申し上げます!
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☆よもやまばなし コロンビア大学 TESOL(英語教授法)プログラム

1998年から2003年までニューヨークに滞在中、コロンビア大学で、TESOL(英語教授法)の資格を取得しました。 約10週間の夏期集中講座で、毎朝8時半から5時まで、スケジュールがみっちり。 あまりにハードで、途中でドロップアウトしてしまう人も何人かいるほどでした。 内容は、英語の様々なTeaching Method, 教材開発、文法・発音の教授法などを、それぞれの分野で活躍する有名な講師に教えていただく事ができました。また、コロンビア大学のAmerican Language Program(ALP)や、移民局が提供する英語のクラスで、実際に、中国、韓国、日本、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、中近東からの語学留学生に英語を教える実習もありました。入学資格は、TOEFL(PBTで600点以上、CBTで270点以上)、英語教育に関する論文審査、大学の成績などでした。生徒のほとんどは、アメリカ人で、日本人の生徒は私だけでした。他に外国人は、ギリシャ人とメキシコ人が数人いて、英語を母語としない者同士、とても親しくなりました。ニューヨークでは、ライ(Rye)という町に住んでいたのですが、毎日、NYC(マンハッタン)まで、車で約40分の道のりを通いました。 毎日の課題(論文やプレゼンテーション)に追われ、あっと言う間の10週間でした。コロンビア大学の周りには、素敵なレストラン、お店、ライブハウスなどがたくさんありましたが、ほとんど行けずじまいでした。教材開発のクラスが一番大変でしたが(とても楽しかったのですが)、卒業プロジェクトで”A”をとることができ、また、私の開発した教材が実際にALPで使われることになり、とても嬉しく思いました。このプログラムを終了して、約3週間後に、9・11テロ事件があり、NYCに住む友人達、お世話になった講師陣の事をとても心配しましたが、その後、皆と再会できた時は、本当に、感激しました。IMG_9289IMG_9288IMG_9292IMG_9297

☆よもやまばなし 通訳・翻訳会社 JETS, Inc.について

前回、このコーナーで、JETS, Inc.の設立について少しふれましたが、今回は、その事業内容についてお話ししたいと思います。 (有)ジェッツ・インコーポレイテッドを設立当時は、バブル経済の真っただ中で、5年間お世話になった神奈川県庁、ならびに県内の横浜市、座間市、姉妹州のメリーランド州政府、カナダ大使館などの公的機関や、貿易商社(理化学機会の輸入商社、イタリアの自動車メーカー)などの民間企業、ボストンの理化学機器のメーカー、米軍情報機関(日本の雑誌を英訳する仕事)などから、まとまったお仕事をお引き受けすることができました。 また、カナダ大使館で通訳の仕事をしていた時に知り合った専属翻訳者の同僚もジェッツに入ってくださる事になり、さらに、お互いの通訳・翻訳仲間を駆使して、色々な仕事を切り盛りしていました。 が、バブル経済が弾けると、状況は一転し、仕事量はガタ減り、どうしようかと思っていたところ、神奈川県の姉妹州であるメリーランド州政府から日本の代表事務所を運営する仕事のオファーがあり、お引き受けしました。 これを契機に、通訳・翻訳のみならず、イベントの企画やビジネスコンサルティングのような仕事も手がけるようになりました。 また、技術翻訳などで、長くお手伝いをさせていただいていたボストンのベンチャー企業が開発した精子分析装置が、にわかに脚光を浴びるようになり(当初、3名でスタートしたこのベンチャー企業は、今や上場企業。製薬会社、不妊クリニック、大学の研究室が主な取引先でした)、何とか、バブル崩壊後の厳しい時代を乗り越えることができました。その後、NYに転居後も、ボストンの企業の通訳業務や、製品マニュアル・契約書の翻訳業務などを、細々と続け、現在に至っています。当時、いち早く、インターネットを取り入れた事などもあり、東京のとある出版社から取材が入り、下記のように紹介してくださいました。
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☆よもやまばなし 神奈川県での通訳職の仕事

前回(通訳かけだしの頃)の続きです。 2年間ほど、神戸製鋼で技術通訳・翻訳の仕事を経験後、家族の事情で、東京(横浜)に転居することになり、とりあえず、また、通訳・翻訳エージェントに登録して、フリーでお仕事をお引き受けしていました。 が、やはりフルタイムの規則正しい仕事を探していたところ、神奈川県庁が通訳職を募集しているという求人広告を見て応募しました。公務員試験、専門職の試験、日英での面接など5次試験くらいまであり、まさか、突破できるとは思ってもいなかったのですが、最終選考まで残り、2名の採用枠に入りました。神奈川県に入庁後は、神奈川県渉外部国際交流課に所属し、知事・副知事通訳、米軍基地関連通訳、姉妹州関連の通訳(米国メリーランド州、マレーシアのペナン州、オーストラリアのゴールドコースト、スウエーデンのエーテボリ、ドイツのバーデンビュルテンベルグ州など)、公的文書の翻訳が主な任務でした。 在職中に、福祉政策、環境政策、経済政策、教育問題、女性問題、文化交流など、様々な分野の仕事を経験することできました。 当時は、バブル経済のまっただ中で、海外出張なども多く、超多忙の毎日を送っていました。また、米軍関連の英文契約書類の作成などでは、通訳職の厳しい上司にみっちりしごかれ、今でも、当時の上司には感謝の気持ちでいっぱいです。神奈川県庁での仕事は、とても充実していたのですが、2人の子供をかかえ、毎日、残業などをすることが難しかったこと、と、同時に自分で通訳・翻訳会社を起業してどこまでできるのか挑戦してみたかったことなどもあり、県庁に入って5年目に退職をして、フリーになる道を選びました。 安定した公務員の仕事をやめる時は、かなり悩みましたが、自分の夢に向かって一歩踏み出し、JETS, Inc.(有限会社 ジェッツ・インコーポレイテッド)をスタートさせました。 JETSは、Japanese English Translation Serviceの頭文字をとりました。今のJETS Academyの母体となります。 つづく
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☆よもやまばなし  通訳かけだしの頃

米国への留学から帰国し、しばらく、神戸の国際学校で校長秘書としての仕事をしておりましたが、主な業務は、当時、導入されたばかりのコンピューターを使った成績表作り、学校のイベントの補佐、生徒・先生の管理、日本人のご両親のための会議通訳、などなど、毎日、バタバタとしていました。が、心のどこかで、将来は、本格的に通訳や翻訳の仕事をしてみたいという希望があり、大阪にある通訳学校に通っていました。 通訳を斡旋するエージェントに登録したところ、とても、興味のある仕事を紹介してくださる事になり、フルタイムの仕事ではなかったのですが、将来のキャリアを考えて転職することを決意しました。まず、最初に、通訳として派遣されたのが神戸製鋼所のインターナショナル・トレーニング・センターでした。 リビア、ブラジル、シンガポール、カタールなど、色々な国々からの研修生に対するレクチャーや工場視察(ヘルメットをかぶって通訳していました)の通訳業務がメインの仕事でした。 私の担当は、精留塔、液体窒素・アルゴンガスの製造、熱交換器などで、技術通訳について、徹底的に勉強した時期でもありました。(高校時代に使っていた、化学の教科書が助かりました。まさか、この教科書を、また、開く事があるとは思ってもいませんでした..笑) 最初は、意味の分からない事ばかりでしたが、エンジニアの方々が、一生懸命、教えてくださり、その後の技術通訳・翻訳の礎になりました。 神戸製鋼所では、エンジニアの講師の方々の情熱、日本の技術集団の素晴らしさを肌で感じ、多くの事を学びました。また、通訳仲間と神戸製鋼のラグビーチームの試合に応援に行くなど、とても、充実した2年間を過ごすことができました。そして、この仕事をきっかけに、通訳の仕事にますます、没頭するようになりました。また、仕事が終わってからの、仲間と交わすビールの爽快感を知ったのもこの頃でした(笑)  つづく

☆よもやまばなし  カリフォルニア大学留学記 

日本の大学を卒業してから2年間、州立カリフォルニア大学サンタクルーズ校(UCSC)に留学していたのですが、当時のエピソードを、時々、UPしていきたいと思います。日本の大学では、体育会のクラブに所属していたため、卒業するのがやっとだったのですが(笑)、卒業後、州立カリフォルニア大学のsecond major(第二専攻)のプログラム(2年間)に入学することが認められました。 TOEFLのスコアと論文が何とか、合格レベルに達していたようですが(ギリギリだったと思います)、本当にラッキーだったと思います。 カリフォルニア大学での2年間は、私の人生を大きく変えた経験(life-altering experience)となりました。 将来、国際機関に勤務することが夢で、とりあえず、政治学部に入学しましたが、最初は、授業の半分くらいしか理解できませんでした。 が、かなりの量のreading assignmentとdebateでしごかれ、何とか、dropoutしないでくらりついていました。 たくさんの友人にも支えられ、卒業するときには、Honors in the Major(学部優等賞)とCollege Honors(大学優等賞)の両方を授与されました。学内に張り出された通知に私の名前が掲載されているよと友人に言われた時は、本当にビックリしました。(まさか、自分が選ばれるとは夢にも思ってもいなかったので…) 卒業式で表彰されることになり、日本から両親もかけつけ、そのときは、最後まであきらめないで本当によかったと思いました。原爆、人口問題、政治哲学、南北問題に関する研究発表など、あっという間の2年間で、生まれてはじめて集中して勉強したように思います。大学院に進みたかったのですが、机上論ではなく、実際に仕事をする事に意義を感じ、就職活動をはじめましたが、日本では、中途採用のシステムがなかったため、とても苦労しました。 取り急ぎ、神戸市にある、国際学校、カナディアン・アカデミーの校長先生(secondary school)の秘書になり、通訳になる勉強をはじめました。 今から思うと、日本の大学(神戸女学院大学)で、英語論文の書き方の基礎を学んでいた事がよかったのだと思います。(Bibliography, quotation,などをつけて、plagiarism(盗作)が、あってはいけない事を徹底して指導されました。 米国大学では、plagiarismがあると、academic dishonestyという事で、学校をやめさせられる事さえありました。) IMG_9030